松下幸之助さんの流儀

松下幸之助さんのお話を「致知」からいただきました。

私が松下の大将(松下幸之助氏)のところへ
入れてもらったのは、
大正十年、満十五歳の時です。

昭和三十六年に三洋の本社常務として
移籍するまでの四十年間は現場一筋でした。

当時の私は、本当に跳ねっ返りでしたからね。

仕事に対するヤル気はあったのですが、
理不尽なことも多くて、職工、住み込みのぼんさん、
新聞売り、出前持ち、大阪市役所の給仕などを
転々としていたんです。


(インタビュアー:転々とされる中で、松下幸之助さんと出会われた)


うん、出会いですなあ。松下といったって、
まだ大将の家と作業場が一緒になっているような
町工場のころですからね。


「大将使うてえな」といったら、
「えらい可愛らしいぼんさんやな。ほな明日からおいで」
といわれましてね。

ところが、仕事させてもらってびっくりした。

木材や鉄板を切ったり、穴開けたり、
曲げたり叩いたりするでしょう。

これ、家でね、柱やら襖に穴開けたりしたら
「いたずらすんな」って殴られるのがオチですわ。

工場で同じことやったら、ようやったと褒めてくれて
給金までくれよる。
こんな仕事が世間にあるということが驚異でした。

自分にとっては遊んでいるようなもんです。
当時は朝七時から晩七時までの十二時間、
休みは毎月一日と十五日の二日間でしたが、
もう楽しく喉鳴らして仕事に行きましたな。


(インタビュアー:“好き”ということは、大きいですね)


仕事は好きにならねばいけませんな。
私の場合はたまたまでしたけど、
後に、このことが大きな差になってきます。


そんなある日、先輩の職工が労働組合を作りよった。
賃上げの要求出すから、みなでストライキを打つというんですな。
私は、休みでも好きで仕事をやっとるから、
嫌やといったんですが、
この時の松下の大将の対応がまた素晴らしかった。


大将はもともと体が弱かったんです。
三日勤めたら一日休みをとらんならんような、
やせた役者みたいな男前でした。
その人が、烈火のごとく怒りましてね。


「賃上げの要求を出して、わしが聞かなんだら、
  ストライキを打たれても仕方がない。
  それを、ストライキを打ってから要求書を出すとは何事か。
  筋が違う!」


いいましてな。かなりもめたけど、
結局、全員解雇してしまった。
頑として、信念と理念を曲げません。


あの優男(やさおとこ)然とした人が、
あれだけの勇気があるとはね、
子供心にも偉い人だと思いましたな。


しかも、よう人情の機微を押さえておられる。
後に、私が工場長をしていた時に、工場の余剰金を
工員慰労のために使い、報告が遅れたことがありましてな。


その話が別のところから、先に大将の耳に入ってしまった。


しもうた! と思っても遅い。
すぐさま家に呼ばれた。夜十時ごろでしたな。

松下の大将は赤々と燃えているストーブを囲んで
親戚の人と何やら話をしておられたが、
私の姿を見ると烈火のごとく怒鳴り始めた。

火かき棒で、そのストーブをバンバン
叩きながらやるわけです。

あまりの凄まじさに見兼ねて、親戚の人が止めに
入ってもやめません。
私は貧血を起こして倒れてしまいましたよ(笑)。


こういう叱り方をしたら、
こいつはこうなるといった作為は全くありません。


全身全霊、叱りつける。


これは骨身に染みますな。


しかしね、この後が違うんですな。
ひん曲がった火かき棒をぬっと出して、


「これを真っすぐにしてから帰れ」。


私がそれを直すと、


「やっぱり後藤クンはうまいもんやなあ」


との一言がつく。


外に出ると秘書課長が待っていて、
私を送ってくれたんです。

で、私の女房を路地に呼び出して、
ひょっとして自殺せんとも限らんから、
夜通し目を放さんように、と耳打ちしたそうです。


しかも、翌日の朝七時、始業前に事務所の電話が鴨り、
出てみると大将です。


「ああ、後藤君か、別に用事ないねん。
 気持ちようやってるか。
 そうか、そらあ結構や」
 
 
といって、すぐ電話が切れた。
心なしか、せっかちな声が優しい。

これで昨夜以来のモヤモヤしていた気持ちが
素っ飛んでしまいました(笑)。