矢沢永吉さんのおはなしその3

永ちゃんの感動する話の3回目です。 

裏切りも乗り越えたよ 

僕自身は懸命に、誠実にやってきた。 

矢沢の音楽を枯らさないようにさまざまな工夫もしてきたけれども、でも悲しい事件は起きた。 

その頃僕は、雑誌で読んだオーストラリア、ゴールドコーストに強く引かれて、そこに拠点を作ろうと考えた。 

1987年のことだった。 

大自然に抱かれて、ここから世界に発信していくスタジオや音楽学校を作る夢が膨らんだ。 

当初26階のビル建てる予定で土地の取得を始めたりしているうちに、日本でバブルが崩壊してしまい、新しいビルを建てるのは次期を待つことにして、買収したビルにテナントを入れ、その収益で土地購入代の返済を続け、十分に採算の取れる運営を行った。  

このオーストラリア事業は、信頼している2人の部下に任せていた。  

英語がうまく、現地で交渉ごとをさせるには適任と思えた人間と、金融関係や不動産関係の仕事経験が豊富な年長の人間。  

うまくやってくれる人選だと思った。 

もちろん、僕自身もチェックは怠らない。 

各テナントからの支払い状況、会社の出納状況、請求書のチェックから登記簿の精査も続け、事業は順調に動いていると信じていた。 

その事件が発覚したのは、98年のことだ。 

現地の責任者だった彼らは、僕の会社を使って別のビジネスをやっていた。 

毎月送ってくる報告書はニセモノで、銀行のレターヘッドから支店長のサインまで偽造。  

詐欺、横領、公文書偽造、私文書偽造、起訴件数73件。 

被害総額30億円以上。 

その借金すべてを背負うのは矢沢自身だった。 

借金の大きさもそうだけれど、僕は身内に裏切られたショックがものすごく大きかった。  

気持ちがボロボロになってしまい、もう立ち直れないほど打ちのめされたね。 

発覚直後から、毎日毎日酒を飲み、もう駄目だ、もう駄目だど落ち込み続けてた。 

これで矢沢も終わりだと思って、真っ暗な闇の中にいるような気持ちでしたよ。 

でもね、1週間もそうやっていたらアホらしくなってきて、ある日ふと気づいたのね。 

これは映画だと思えばいいやって。 

ほら、人間は何度も生まれ変わると言うじゃないですか。 

このたび僕は、キャスティングによって矢沢永吉になったわけ(笑い)。 

室町時代にも江戸時代にも何かやっていて、さあ昭和20年。 

今度はお前、矢沢永吉をやりなさいとこの世に送り出されてきた。 

「生活保護受けて、苦労して広島から夜汽車に乗って上京し、やがて世紀のロックンローラーになる役さ」ってね。 

悪くないよね。 

「でも途中でオーストラリア事件とか、いろいろ苦しいことも起きるけど、まあ人生を楽しんでこいや」って。 

あんまり苦しかったから、パーンとそんな考えが浮かんだのかも知れない。 

それから僕の嫁さんも含め、周囲が言うのね。 

矢沢なら返せない金額じゃないよと。 

そこから僕はライブやって、やって、やって、ある日借金はゼロになってた。 

僕は皆さんにも言いたいね。 

リストラされたって、借金を背負ったってそれは役だと思え。 

苦しいけれど死んだら終わりだから、本気でその役を生き切れ。 

つまり視点を変えれば、気持ちが切り変わるって事なんだ。