矢沢永吉さんのおはなしパート①

先日、朝日新聞に「矢沢永吉が語る仕事」の記事が紹介されていました。 

矢沢永吉さんの感動する話を4回に分けてご紹介します。 

悔しいのが原点だったね 

なぜうちだけが違うのか。 

惨めな思いだった 

僕が3歳の時に母は家を出てしまったし、小学校2年で父が亡くなった。 

だから僕はあちこちの親類に預けられ、そして祖母に引き取られて育ててもらった。 

貧しかったですね。 

生活保護を受けていたし、学校の給食費も、教科書代もすべて免除される。  

そういう特典が恥ずかしくて、悔しくて、なんで僕だけがそうなのか、こんな屈辱的なことはないと思っていた。  

自分が親になったら、息子の給食費や教科書代は絶対払ってやると誓っていましたよ。  

道具が買えないからスポーツなども参加できなかったし、いつもおなかが減っているし。  

つまらない、つまらないと言うのが口癖だったけれど、それを聞くとおばあちゃんは「面白いところに行け」と言うだけ。 

でも涙ぐんでいることもあった。 

それでも僕がぐれなかったのは、音楽に出会ったからです。 

ベンチャーズがすごい人気で、エレキギターのにまず夢中になった。 

もちろん買えないから、友達のを触らせてもらうだけ。  

ビートルズを知ったのもその頃で、自分で作曲のようなことを始めたんです。  

楽曲の本を買って、発声練習なんかも一人で始めてプロになる気持ちが固まっていった。 

人がなんと言おうと自分の夢は必ず叶うと思っていたのは、不思議だね。 

それだけ今の境遇から這い上がりたいと思っていたし、とことん音楽に夢中になる自分を信じられたんだと思う。 

曲をずいぶん書きため、後にヒットする「アイ・ラブ・ユー、OK」も18歳の時にはできていた。 

音楽でスターになる、その思いの強さだけで広島を出てきたけれど、いい曲を作って、何でもやってやるという覚悟だけは大したものだった。 

どんなに苦しい境遇でもビートルズがいた。 

それには心から感謝している。 もうドッカーンというエネルギーで、僕を音楽の世界へ引っ張ってくれた。  

それがなかったら僕の人生はどうなっていたか見当もつかない。  

矢沢はね、音楽を作るという、手に職を持つことが出来たから、今が幸せなんです。  

それを自分の手だけでつかんできたことが、プライドでもある。 

だから若い人にも、人生を貫く仕事にたどり着いて欲しいと思う。 

食うには困らないように、何とか生きていくのが君の人生か。 

でも、自分の方向が見えなくなると暗闇に入ってしまう。 

暗い明日を想像するくらい苦しいことはないんだけどね。 

親や学校、そしてマスコミも好きなことを言ってる。 

低成長時代に突入したから、すべて安全に選ばなくっちゃいけないなんてね。  

いい子になってその助言だけを聞いていたら、迷路に入る。  

自分の人生を照らす明かりは、自分の心の中に灯しておかなくてはいけないもので、他人に吹き消されてはだめです。  

僕は、成り上がるという言葉を大切に思っている。

自分の手で階段を上っていくわけで、本当はこんなにワクワクすることはない。 

うちは裕福だからとうそぶいている人だって、そのご先祖の誰かが成り上がったんです。 

 成り上がりの反対は、ぶら下がりだ。 

やっぱりそれじゃつまらないよね。