スタッフらくがきBLOG
夏だというのに・・・・・
2011年8月9日|カテゴリー「スタッフらくがきBLOG」
こんばんは、e-garden(いーがーでん)の色白男 中村穂高です。
相棒の今泉や、現場でがんばってもらっている職方さんが、日増しに黒くなっていく中、
内勤の私は、事務所の中で、
こんな図面や
内勤の私は、事務所の中で、
こんな図面や
あんな図面
こーーーんな図面を作っています。
いやあ、ほんとは私、夏が大好きでこんがり焼きたいくらいなのですが、
事務所でお客様にプレゼンするための図面ばかり描いていると、焼く機会にめぐまれないわけですよ。
お盆休みは実家のある鹿児島に帰りますので、南国鹿児島で、少しは日焼けして
ちょっとは、外構、お庭作りに携わる人間っぽくなりたいものです。
少し早いですが、
e-garden(いーがーでん)では、8/13-8/17まで、お盆休みをいただきます。
休みの間、みなさまにはご迷惑をおかけしますが、何卒よろしくお願い致します。
事務所でお客様にプレゼンするための図面ばかり描いていると、焼く機会にめぐまれないわけですよ。
お盆休みは実家のある鹿児島に帰りますので、南国鹿児島で、少しは日焼けして
ちょっとは、外構、お庭作りに携わる人間っぽくなりたいものです。
少し早いですが、
e-garden(いーがーでん)では、8/13-8/17まで、お盆休みをいただきます。
休みの間、みなさまにはご迷惑をおかけしますが、何卒よろしくお願い致します。
あきらめなければ道はひらける
2011年8月3日|カテゴリー「スタッフらくがきBLOG」
ビル・ポーター氏の心に響く話より…
ビルは1932年に先天性脳性まひの子として生まれ、手足が多少不自由で、言葉をうまく話せなかった。
ビルが生まれるとセールスマンだった父親は仕事を辞めて障害児施設で働き始める。
税理士の母親もまた、ビルを懸命に訓練して、夫妻は我が子の障害と正面から向き合った。
養護学校を卒業したビルは、普通の高校に進学した。
障害児が一般の高校に進学するのは簡単ではなかったが、
各方面に働きかけた両親の努力が実ったのである。
この頃のビルは「あきらめなければ道は開ける」と書かれたメモをいつもポケットに入れていた。
障害を言い訳にしてくじけることがないように、両親が持たせたものだ。
高校を卒業したビルは庭師の仕事に就いたが、芝刈りなどの作業ができないために収入はわずかだった。
そこで障害者に家庭用品を売るセールスの仕事に変わった。
ビルは才能を発揮して支部の営業トップになる。
しかし、だんだん売れなくなって成績は落ち込む。
結局セールスの仕事は諦め、レジ係りや倉庫係など様々な仕事に就いたものの、
ミスが多く片っぱしからクビになってしまう。
やはり、自分にはセールスの仕事が向いていると思ったビルは、意を決して訪問販売会社の門を叩き、
「最低の営業エリアでの試験採用」という形で雇われる。
そこはスラム街同然の治安の悪い地区で、昼間はほとんどの人が働きに出ていて留守だった。
それでも彼はひたすら歩き、人の出入りを粘り強く待ち続けて商談にこぎつける。
しかし、彼の話を聞いてくれる人はいなかった。
「帰れ」「何もいらない」「二度と来るな」… どれだけ罵声を浴びても、ビルは毎日100軒の家を訪問し続けた。
不自由な足で1日に歩く距離は15kmに及んだ。
大雨が降ろうが灼熱の炎天下だろうが、ビルは歩き続ける。
「次の家ではイエスと言ってもらえる」という呪文をつぶやきながら。
そんな努力は少しずつ実を結び、商品が売れるようになった。
彼は記憶力も抜群で、どの客がいつ何を買ってくれるかが、すべて頭の中に入っていたのである。
ただ物を売るだけでなく、客の家庭に何かトラブルがあれば、親身になってできる限りの手助けもした。
いつしか彼は地区成績トップのセールスマンになっていた。
どんな時でも彼は休まない。
14年間で休んだのは2日だけだ。
道で転倒して血まみれになったビルを顧客が車で病院に運んでくれた。
7針縫って治療が終わり、彼の家まで送ろうという客に対して
「ありがとう。でも私には仕事が残っています。受け持ちの地区に送ってもらえますか」
と懇願してセールスを続けたという。
「雨の日は大好きですね。家に人がいることが多いから。絶好のセールス日和なんです」とビルは言う。
靴紐を自分で結べないビルには、雨の日は身支度は大変なはずだが、彼は常に前向きだ。
「私には障害などひとつもないのです」とは、本心からの言葉だろう。
ビルは1932年に先天性脳性まひの子として生まれ、手足が多少不自由で、言葉をうまく話せなかった。
ビルが生まれるとセールスマンだった父親は仕事を辞めて障害児施設で働き始める。
税理士の母親もまた、ビルを懸命に訓練して、夫妻は我が子の障害と正面から向き合った。
養護学校を卒業したビルは、普通の高校に進学した。
障害児が一般の高校に進学するのは簡単ではなかったが、
各方面に働きかけた両親の努力が実ったのである。
この頃のビルは「あきらめなければ道は開ける」と書かれたメモをいつもポケットに入れていた。
障害を言い訳にしてくじけることがないように、両親が持たせたものだ。
高校を卒業したビルは庭師の仕事に就いたが、芝刈りなどの作業ができないために収入はわずかだった。
そこで障害者に家庭用品を売るセールスの仕事に変わった。
ビルは才能を発揮して支部の営業トップになる。
しかし、だんだん売れなくなって成績は落ち込む。
結局セールスの仕事は諦め、レジ係りや倉庫係など様々な仕事に就いたものの、
ミスが多く片っぱしからクビになってしまう。
やはり、自分にはセールスの仕事が向いていると思ったビルは、意を決して訪問販売会社の門を叩き、
「最低の営業エリアでの試験採用」という形で雇われる。
そこはスラム街同然の治安の悪い地区で、昼間はほとんどの人が働きに出ていて留守だった。
それでも彼はひたすら歩き、人の出入りを粘り強く待ち続けて商談にこぎつける。
しかし、彼の話を聞いてくれる人はいなかった。
「帰れ」「何もいらない」「二度と来るな」… どれだけ罵声を浴びても、ビルは毎日100軒の家を訪問し続けた。
不自由な足で1日に歩く距離は15kmに及んだ。
大雨が降ろうが灼熱の炎天下だろうが、ビルは歩き続ける。
「次の家ではイエスと言ってもらえる」という呪文をつぶやきながら。
そんな努力は少しずつ実を結び、商品が売れるようになった。
彼は記憶力も抜群で、どの客がいつ何を買ってくれるかが、すべて頭の中に入っていたのである。
ただ物を売るだけでなく、客の家庭に何かトラブルがあれば、親身になってできる限りの手助けもした。
いつしか彼は地区成績トップのセールスマンになっていた。
どんな時でも彼は休まない。
14年間で休んだのは2日だけだ。
道で転倒して血まみれになったビルを顧客が車で病院に運んでくれた。
7針縫って治療が終わり、彼の家まで送ろうという客に対して
「ありがとう。でも私には仕事が残っています。受け持ちの地区に送ってもらえますか」
と懇願してセールスを続けたという。
「雨の日は大好きですね。家に人がいることが多いから。絶好のセールス日和なんです」とビルは言う。
靴紐を自分で結べないビルには、雨の日は身支度は大変なはずだが、彼は常に前向きだ。
「私には障害などひとつもないのです」とは、本心からの言葉だろう。
疲れた時にはチョコレート!
2011年8月2日|カテゴリー「スタッフらくがきBLOG」
こんにちは、e-gardenスタッフの今泉 景子です。
たまにはお庭ネタじゃないところで・・・
この前、佐賀の町を車で走らせていると・・・
『チョコレート専門店』の文字が!
たまにはお庭ネタじゃないところで・・・
この前、佐賀の町を車で走らせていると・・・
『チョコレート専門店』の文字が!
佐賀の町にもおしゃれなお店ができたのか!!
と仕事中でしたがついつい寄ってしまいました。
疲労回復の為、仕方がありません
と仕事中でしたがついつい寄ってしまいました。
疲労回復の為、仕方がありません

試食も豊富で、カフェコーナーもありますので
みなさんぜひ立ち寄ってみてはどうでしょう~?
箱には味のある文字がありますよ~
みなさんぜひ立ち寄ってみてはどうでしょう~?
箱には味のある文字がありますよ~
箱を開けると・・・
おいしそうでしょう~
疲労回復のため
チョコレートづくしのケーキをチョイスしました。
ちなみに、一人で全部食べてませんよ~
お庭だけでなく、チョコレートにも心癒される今泉です。
チョコレートが好きで、お庭や寄植の好きな方、e-garden(いーがーでん)の今泉までお問い合わせください。

疲労回復のため
チョコレートづくしのケーキをチョイスしました。
ちなみに、一人で全部食べてませんよ~
お庭だけでなく、チョコレートにも心癒される今泉です。
チョコレートが好きで、お庭や寄植の好きな方、e-garden(いーがーでん)の今泉までお問い合わせください。
へぇ~そんな人もいるんだ的記事を発見しました
2011年7月28日|カテゴリー「スタッフらくがきBLOG」
ドイツのとある女性の生き様が、現地メディアで取り上げられ、注目を集めている。彼女はこれまで15年間、お金を一切使わずに生活しているというのだ。しかし、彼女はホームレスではなく、衣食住に不自由なく暮らしているという。
また2冊の著書を出し、彼女の生き様はドキュメンタリー映画にもなっているのだ。では一体、どのように暮らしているのだろうか? どうやら彼女の生き方には、さまざまな知恵と工夫があるようだ。
お金を使わずに生きる女性、ハイデマリー・シュヴァルマーさん(69歳)の人生は、決して楽な歩みではなかった。東プロイセン(現在はポーランド、ロシア、リトアニアが分割統治)で生まれた彼女は、第二次世界大戦後に家族と共にドイツに難民として移住した。大人になり20年間教師として務めた後に、精神科医として働くこととなった。
学校教師として働いている間に結婚し、2人の子どもを設ける。しかし、夫との関係がうまく行かずに離婚し、女で1人で子どもたちを育てることとなる。
そんな彼女の人生に大きな変化が訪れる。1989年、2人の子どもを連れてドルトムント市に引っ越したときのこと、彼女は多くのホームレスの姿を目の当たりにし、衝撃を受けた。彼らのために何かできないかと思案した末に、1994年「譲り合いセンター(Give and take central)」を設立する。
これは、お金を使わずに価値を交換する施設である。たとえば、古着を台所用品と交換できたり、車に関するサービスを提供する見返りに、配管サービスを受けられたりなど、価値と価値を交換することができるのだ。この施設は、数多くの失業者の助けとなり、彼女のアイディアを真似した施設が、ドイツに多数誕生した。
お金にはならなくても、知恵や技術を持ち合わせた人が集まることにより、お互いを助け合うコミュニティが形成されたのだ。
この成果から、彼女は暮らしていくのに、「お金」は本当に必要なのだろうか? と疑問を抱くこととなった。自分が欲しいもののために、相手に貢献することこそ、本当の仕事だと理解したのだ。
そして、お金のためだけに働くことが、精神的・肉体的に苦痛を伴うとはっきりわかり、施設設立から2年後に仕事を辞めることなる。さらに、子どもが大きくなり家を出て行くと、不要なものはすべて廃棄、アパートさえも引き払ったのだ。
お金を手放し、仕事を手放し、家さえも手放した彼女。しかし暮らしていくのにはまったく困ることのない、自由な生き方を手に入れたのである。当初は1年間だけの実験であったはずが、すでに15年間も続けている。
彼女が暮らしていけるのは、「譲り合いセンター」があるおかげだった。ここに物々交換所であるだけでなく、宿泊施設も備えていた。さまざまな雑用をこなせば、寝泊りすることができる。また、彼女を迎えてくれる家庭も少なくない。というのも、施設を作ったおかげで失業者たちは自らの技能を活用できるようになり、また出版したおかげで、豊かな生活を送れる人が増えたのだ。彼女に感謝している人の数は計り知れない。
そして何より、彼女自身働き者だった。家事はもちろんのこと、雑用でも何でもしっかりとこなしてくれる。一晩泊めるだけで家中のことがはかどるのは、主婦にとって有難いことであった。自分が働けば働くほど、喜ぶ人が増え、欲しいものが手に入る。そうして彼女は、お金を稼ぐことでは味わえなかった豊かさを得たのだ。
そんな彼女は普段、スーツケース1個で生活している。必要なものはそれだけ。緊急時のために200ポンド(約2万2000円)を蓄えている以外は、すべてのお金を寄付している。著書やドキュメンタリー映画の売り上げもすべて寄付しているそうだ。
1つだけ問題があるとすれば、それは健康保険を支払っていないため、病院に行けないことだ。病気やけがの心配があるのだが、彼女は自然治癒力で、治すと豪語している。
夢のような暮らしぶりなのだが、慣れるまでは随分苦労したに違いない。いずれにしても、いろいろな欲求をコントロールできない限り、彼女のように生きて行くのは難しいのではないだろうか。
てなわけでみなさんはどうおもいましたか?
また2冊の著書を出し、彼女の生き様はドキュメンタリー映画にもなっているのだ。では一体、どのように暮らしているのだろうか? どうやら彼女の生き方には、さまざまな知恵と工夫があるようだ。
お金を使わずに生きる女性、ハイデマリー・シュヴァルマーさん(69歳)の人生は、決して楽な歩みではなかった。東プロイセン(現在はポーランド、ロシア、リトアニアが分割統治)で生まれた彼女は、第二次世界大戦後に家族と共にドイツに難民として移住した。大人になり20年間教師として務めた後に、精神科医として働くこととなった。
学校教師として働いている間に結婚し、2人の子どもを設ける。しかし、夫との関係がうまく行かずに離婚し、女で1人で子どもたちを育てることとなる。
そんな彼女の人生に大きな変化が訪れる。1989年、2人の子どもを連れてドルトムント市に引っ越したときのこと、彼女は多くのホームレスの姿を目の当たりにし、衝撃を受けた。彼らのために何かできないかと思案した末に、1994年「譲り合いセンター(Give and take central)」を設立する。
これは、お金を使わずに価値を交換する施設である。たとえば、古着を台所用品と交換できたり、車に関するサービスを提供する見返りに、配管サービスを受けられたりなど、価値と価値を交換することができるのだ。この施設は、数多くの失業者の助けとなり、彼女のアイディアを真似した施設が、ドイツに多数誕生した。
お金にはならなくても、知恵や技術を持ち合わせた人が集まることにより、お互いを助け合うコミュニティが形成されたのだ。
この成果から、彼女は暮らしていくのに、「お金」は本当に必要なのだろうか? と疑問を抱くこととなった。自分が欲しいもののために、相手に貢献することこそ、本当の仕事だと理解したのだ。
そして、お金のためだけに働くことが、精神的・肉体的に苦痛を伴うとはっきりわかり、施設設立から2年後に仕事を辞めることなる。さらに、子どもが大きくなり家を出て行くと、不要なものはすべて廃棄、アパートさえも引き払ったのだ。
お金を手放し、仕事を手放し、家さえも手放した彼女。しかし暮らしていくのにはまったく困ることのない、自由な生き方を手に入れたのである。当初は1年間だけの実験であったはずが、すでに15年間も続けている。
彼女が暮らしていけるのは、「譲り合いセンター」があるおかげだった。ここに物々交換所であるだけでなく、宿泊施設も備えていた。さまざまな雑用をこなせば、寝泊りすることができる。また、彼女を迎えてくれる家庭も少なくない。というのも、施設を作ったおかげで失業者たちは自らの技能を活用できるようになり、また出版したおかげで、豊かな生活を送れる人が増えたのだ。彼女に感謝している人の数は計り知れない。
そして何より、彼女自身働き者だった。家事はもちろんのこと、雑用でも何でもしっかりとこなしてくれる。一晩泊めるだけで家中のことがはかどるのは、主婦にとって有難いことであった。自分が働けば働くほど、喜ぶ人が増え、欲しいものが手に入る。そうして彼女は、お金を稼ぐことでは味わえなかった豊かさを得たのだ。
そんな彼女は普段、スーツケース1個で生活している。必要なものはそれだけ。緊急時のために200ポンド(約2万2000円)を蓄えている以外は、すべてのお金を寄付している。著書やドキュメンタリー映画の売り上げもすべて寄付しているそうだ。
1つだけ問題があるとすれば、それは健康保険を支払っていないため、病院に行けないことだ。病気やけがの心配があるのだが、彼女は自然治癒力で、治すと豪語している。
夢のような暮らしぶりなのだが、慣れるまでは随分苦労したに違いない。いずれにしても、いろいろな欲求をコントロールできない限り、彼女のように生きて行くのは難しいのではないだろうか。
てなわけでみなさんはどうおもいましたか?
家庭菜園の醍醐味 採ったその場で食します。
2011年7月26日|カテゴリー「スタッフらくがきBLOG」
こんにちは、e-garden(いーがーでん)の中村穂高です。
先日は、家庭菜園でできたきゅうりを「だんご3兄弟」の歌に乗せてご紹介しましたが、
今日は愛娘(2歳)のラップに乗せて、家庭菜園の醍醐味を紹介します。
YO!YO! キュウリ YO!
先日は、家庭菜園でできたきゅうりを「だんご3兄弟」の歌に乗せてご紹介しましたが、
今日は愛娘(2歳)のラップに乗せて、家庭菜園の醍醐味を紹介します。
YO!YO! キュウリ YO!
e-gardenファンのみんな聞いてくれYO!
家庭菜園楽しいYO!
もぎって食べるYO!きゅうりをYO!
産地直送?地産地消?そんなものより新鮮フレッシュだYO!
水分たっぷり、みずみずしい
育てた甲斐があるってもんYO!
ちなみにわたしが持っているのはマイクじゃないYO!
きゅうりだYO!
みんなもしてみなYO!家庭菜園!
グリーンカーテンにもなるYO!ecoだYO!
どうだったでしょうか?
一人でも家庭菜園しようかな?気持ちになっていただければ幸いです。
ならないか
もう少ししたら、ゴーヤを紹介できると思います。
乞うご期待!
家庭菜園楽しいYO!
もぎって食べるYO!きゅうりをYO!
産地直送?地産地消?そんなものより新鮮フレッシュだYO!
水分たっぷり、みずみずしい
育てた甲斐があるってもんYO!
ちなみにわたしが持っているのはマイクじゃないYO!
きゅうりだYO!
みんなもしてみなYO!家庭菜園!
グリーンカーテンにもなるYO!ecoだYO!
どうだったでしょうか?
一人でも家庭菜園しようかな?気持ちになっていただければ幸いです。
ならないか

もう少ししたら、ゴーヤを紹介できると思います。
乞うご期待!
